『タリーと私の秘密の時間(2018)』
キャリアを追い求めたかったけれど、それを子育てに中断されてしまったからいつまでも諦めが付かず、愛しているのに罪のない子どもに当たってしまう、というのはよくあるプロットだけれど、マーロは違うんだよね。
マーロは子どもたちを愛していて、仕事よりもむしろ子どもを持つこと夢だったタイプなんじゃないかな。
それはマーロとタリーがブルックリンのバーで、胸が張って苦しむマーロをタリーがなだめるシーンで、扉を叩くやからに対してタリーが「いま奇跡を起こしてるの!」っていうシーンでよく分かる。
マーロにとっては彼女がタリーだった頃からずっと、子どもというのは神聖で愛されるべきで奇跡のたまものだった。今もそう思っているけれど、そう思っているに即しただけの優しい対応というものが、そうするだけに必要なほどの心の余裕が日常の多忙さでかき消されてしまってできていない。それができていない自分が許せなくて、かといって夫も仕事で多忙で兄夫婦はリッチなので環境が違うし、何より子育てをベビーシッターに頼むということを、自分に対して許してあげられなかった。
そんな中でマーロがはじき出した方法っていうのが、若い時の自分、タリーに助けてもらうということだった。若い時の、っていうのは、確かにあの頃は自由だった・体も細くて魅力的だった・思考もハッキリしていてクールだったっていう、『あの頃は良かった』っていう羨望もあったんだろうけど、今の自分の状況(子どもに恵まれること)に憧れていた過去の自分が、今の私を見たらなんていうだろうっていう恐れもあるはずで、そのタリーがマーロを助けてくれるというのは、私がタリーだったら子どもたちをいつもハッピーでいさせてあげられるのにっていう、今の自分への自己嫌悪が引き起こさせたものだったのではないか。
もちろん、マーロがタリーのままでは子どもたちと出会うことはできなかったのだけど、あの頃のかっこよかった私ならできたであろうことが、どうして今の私にはできないんだろう・こなせないんだろうっていう心苦しさがずっと、マーロにはあったんじゃなかろうか。
私は本編を観る前も、観始めてからもマーロとタリーは別人だろうとすっかり思っていて、交通事故後の病院でマーロの旧姓がタリーだったと分かるシーンまですっかりと騙されていた。
タリー=結婚前のマーロだと分かってから、その前のシーンを思い返せば切ないシーンがたくさんある。旧友と会うシーン(あの人は後半タリーが、私が男を連れ込むと怒る同居人と同一人物だよね)、夫のために買っていたコスチュームをタリーに着てもらってタリーに誘惑してもらうシーン。
あれ、急にこの映画の倫理観が狂い始めたと思ってどうした!?って慌てたシーンなんだけど、あれはマーロが自分の体形の変化を気にしつつ夫婦関係を再開させたくて、タリーの身になりきって誘ったっていうことだよね…
ウェイトレス姿のタリーにマーロが「妊娠していない体」って言っていたけど、あの言葉の重さは凄まじい。妊娠の代償とはいえ、子どもにすら「ママの体どうしちゃったの?」と言われる体、それを自分で愛して夫の前に晒そうとするって、恐らくものすごく勇気のいることだ。
マーロは最後、夫にこれまでの育児の不参加を謝罪され、協力を得て歩んでいくわけだけど、マーロを救ったのは確かにタリーで、つまりは過去の自分だったんだよね。
私はこの事実にとても勇気づけられると同時に不安も感じて、というのも自分で自分を救うことができるというのは物凄く頼もしいことではある。だって自分が自分を裏切ることって、そうそうしないから。
でもいざ自分に当てはめてみると、今後若い時の私になるであろう今の自分は特にゴキゲンなやつでもなく、将来のために頑張っているんでもなく、博識なわけでもキレイなわけでもない。そんな私が未来の私を救える私になるかしらと、ちょっと心もとなく、かつ不安には思いました。
それでも今の自分を、他の誰でもない過去の自分が救ってくれるというその結論の美しさだけは物凄く確かです。