いもぐい

映画や読んだ本、マンガの感想、生活のログ。

『光をくれた人(2016)』

人間愛の話かと思ったら戦争の話でした。金カムでだいぶそういった方面に揺さぶられている日々を送っているので、刺さりましたね……

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 ちょっとびっくりするほどの映像美なので、観た方がいいです。

これのロケ地はどこなんだろう...?ものすごく広大で美しく、どこまでも人間を遠ざけるような恐ろしさ、雄大さがある島。

そしてそれが正しく最も美しい時間・色・構図で撮られているので、バッチリ以外の言葉がありません。

 

なんとなくあらすじは知っていたのだけど、トムが灯台守になった理由はすっかり忘れていたので、おお戦争で奪われた者たちの話かい…ッ!!と覚悟して観ましたが、やはり辛かったですね……

 

なんというか、最も辛いのはトムとイザベルを責めきれないところなんですよね。

確かに人の子を届け出もせず、彼女の本当の親から何年も奪い続けたことは犯罪であるんだけど、彼らがそれに走った背景を考えると、犯罪者であるという言葉以外で彼らを断罪することはできないんじゃないだろうか。

私は犯罪者という言葉と悪人という言葉は別だと思っていて、犯罪者というのはもちろん犯罪を犯し法を破った者なのだけど、悪人というのはそれに加えて倫理的に全く同情の余地のない者たちのことなのではないかなと思っています。

そういう意味で使うとすれば、トムとイザベルはやはり犯罪者としてしか、おさめることができないのではないか。

ハナに対しては本当に同情するしかない。トムと同じく戦争で消費去れた人間とそれを助けたハナが受ける仕打ちにしては、大きすぎる。

しかし後半ではハナは、夫が言っていたように赦すことをしようとするんだよね......人間がどれほど柔く優しく、どれほどに愚かかがよく分かる行動なのではないでしょうか。

ハナはあまりに自分の娘、グレースを思うあまりに彼女をイザベルに託そうとしたよね。私はこれにびっくりしたんですよ。それは許してはならんだろうと。ハナがその時点でシェアボーン夫婦の背景を知っていたのかは知らないけれど、それでもイザベルへの赦しをグレースを用いて表現してはならないだろうと。

血縁関係の元で育てられる子どもが最も幸福であるとは思わないけれど、ハナがイザベルを赦すことを否定もしないけれど、それでもこれ以上グレースを巻き込んで赦す/赦さないの葛藤をすべきではないと感じた。

グレースがルーシーとしてシェアボーン夫妻のもとにやって来たのは偶然であり、そこにグレースの親(ハナたち)の意思はなく、シェアボーン夫妻の独断で切り離し続けられたのだから、ましてや最も運命を揺すられ続けたグレースの居場所を再び変えようとすることはしてはならないと思ったんです。

なので、トムの単独犯罪だったと信じたハナが、イザベルに対して夫が投獄されたのならあなたの元にルーシーを返すというのは物凄く残酷ですよね。ハナに責任はないけれど、これこそ(自分にいつまでも懐いてくれない”ルーシー”も含む)憎しみにかられた所業だったのではないか。

流産の後から続いたイザベルの精神不安による身勝手さが、トムの手紙によって終わって、本当に良かった......

 

結局イザベルもトムも、どうして最後に自分たちの本当の罪を明かしたのかと言えば、結局トムがルーシーよりもイザベルを愛していたからなんじゃないかなと思いました。

ルーシーはイザベルを救ったけれども、トムの命を救ったのはイザベルなので。

もしイザベルが自分の罪を告白しなかったら、トムの命に光を灯したのと同じ人物であるイザベルが彼の光を消すという恐ろしい話になっていたので、イザベルが贖罪してくれて心から安堵しましたよね。はー良かった。

 

トムは本当にずっと一貫してイザベルを守ろうとしているよなあ…それこそ島に警官がやって来た時も、真っ先に守ろうとしたのはイザベルだったじゃないですか。もちろん彼女を守ることがルーシーを守ることにも繋がるんだけど、自暴自棄になっていた自分の命を再び灯し、人生を与えてくれた人間に対してこれほどに愛と忠義を示すのか…と驚きはしました。

トムは特に戦前の人生も辛いもので、戦中は自分の死を悲しむ者がいないから気が楽だった(なんて悲しい言葉だろうか)と言っていたぐらいだったので、イザベルは戦後のトムを救ったのではなく、彼の人生を丸ごと救ったんですもんね…人生を与えたと言ってもいいぐらいの所業だったんだろうな。

 

戦争に直接関与したトムだけでなく、周辺のハナ・イザベルなど、戦争とその時代のあらゆる至らなさのせいで傷つけられ奪われ、それへの憎しみと葛藤、そして赦すまでの過程が丁寧に描かれていて、私はエンディングにも納得して観れました。

 

俳優陣の演技に関しては、高校の時にハマったマイケル・ファスベンダーが抑えた良い演技をしていて嬉しかったです。

アリシア・ビカンダーは噂は数年前から聞いていたものの出演作はひとつも観ていなかったので、ファスベンダーとの私生活カップルの共演作ってことで興味を引かれていたっていうのが正直なところです。

彼女も良かったですね…明るさと、それの背後にある気性の荒さなど気性が豊かなキャラクターだったけど、どの時も全然違和感がなかった。

特に2人目の墓前の前で草原に横たわるシーン、目の中にもう草が入りそうなのにどこまでも遠い冷たい真っ黒な目をしていてとても良かった......あのシーン自体、枯野原を子どもの頭に見立てているようで綺麗だった。子どもの頭を撫でようとしてそれができない母親……

 

原題の『The Light Between Oceans』と邦題は大きく異なるけれども、邦題も短く作品の本質を表しているのでなかなか良いのではないでしょうか。おかしな副題がついていないだけ良い。この映像の美しい映画に長々しいタイトルは不要なはず。

『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ(2015)』

最近結婚というものの限界をよく考えている。 

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 というのも、私の身近な母と叔母が共に幸せとは言えない結婚生活をしているから。
もちろん、部分的には幸せなのだけど、全体的には、つまり細部を見ていくと完璧どころかウンザリするようなものがいっぱいその関係性に詰まっているから。

共に原因は妻側の成長と変化に対して、変わらぬ夫が悪いという2人の間でのズレである。
傍から見ていると、私にとっては母と叔母、つまり変化した側の変化というのは時代に沿ったもので、決して彼女たち自身の中に理由があって変化したものでは無い。外的環境や時代によって必要とされたから変わったのであって、彼女たちは確かにその変化をエンジョイしているのだけれど、同じくらい大変なこともあったのだから望んだものではなかったはずだ。
それに対して夫側、つまり父と叔父の変わらなさは、ものすごく呑気で自分勝手に見える。なんなら、結婚してパートナー及び家族、子供を持っているにしては幼すぎるようにさえ思える。
つまり、自分の母や父などと築く受動的な家族関係ではなくて、自分が妻や夫と主体となって築くべき家族関係の中ではあまりに無責任すぎる態度で全く不十分だろうと思うようなもの。

結婚というのは長いスパンで考えられる関係性の作り方で、変わることは大なり小なりあるだろうし、それが両者の間でズレや齟齬が生まれ始めると容易に破綻しかねないだろう。もちろん片方のみの変化に対して変化していない側がそれを置いても相手を変わらず愛し続けられるとか、お互いが愛とか興味を超えて関係を続けるとか、いろんな存続のしようはあるのだろうけど、結婚というものがどれほどの薄氷の上に根差している制度なのかと考えると恐ろしくなる。

人間というものは、変化していくものだし、それが生きるために必要であったり時代に即したものにリニューされていくなら素晴らしいものだと思う。人間の価値だと思っている。でも同時に変化を恐れる感情も人間には内在していて、それが前者の良い変化を阻害することが往々あり、結婚でも当然それが起こる可能性を考えておかなければいけない。まあ結婚においてそれが起きるとかなりの割合で悪関係になるに違いなく、まさしくそれが私が結婚を恐れ、かつ疑問を持っている理由である。

要するに、変わりやすい人間は結婚に向かないのではないか、と。もしくは自分と同じくらい変わりやすい人間をパートナーに選ぶべきだろう。
変わりやすいというのはもちろん恋愛感情が、の話ではなくて、価値観だったり趣味だったりの話だ。恋愛感情が変わりやすい人はそもそも結婚をすべきではないので。
まあそういうわけで私自身は結婚を望むのであればよっぽど自分に似た人を探すべきで、それができなければすべきでないと思っているのだけど、私のコミュ力では今のところ私に似た人が探せていない。私のパーソナリティーがレアということが言いたいのではなくて、私の探査能力と人間関係の構築能力の下手さを嘆いている。どうして私程度の他人が探せないのか、と。

 

『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』はファッキンラブストーリーだと思う。公式サイトでは『NYに暮す男女3人の、ちょっと”こじれた”三角関係を軽やかに描いたハートフル・コメディ.』と書いてあるけれども、この作品は少なくともハートフルではない。

映画『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』公式サイト

コメディであることは確かだけれども、人間の身勝手さと愚かさを嗤う心が根底にあるコメディだ。タッチや映像や音楽はポップだけれども、描いているものはものすごくシリアスでどちらかというとブラックジョーク的ですらあると思う。

 前半ではもうイーサン・ホークにやられっぱなしだった。ジョンの妻、ジョーゼットの冷徹さというのか我儘っぷりに虐げられる彼が可愛そうで、マギーと彼を応援していたし、ジョンがカギを無くしてマギーの家に転がり込んでくるシーンは胸キュンが止まらなかった。

あの、あのジョンがマギーの前でひざまずくシーン!たまりませんよね。ひざまずくと言ってもいわゆる往年の童話的な白馬に乗ったキラキラ王子様にプロポーズを請われるときにされるやつじゃなくて、もっとめちゃくちゃに人間臭いやつ。懇願に近く、あんまりにも弱弱しいもんだから、された相手に有無を言わせないそれ。サイコーーーーー……。

物語が進むにつれて分かっていくジョンの身勝手さとマギーの献身癖、ジョーゼットの強かなだけじゃない弱さなどが全て”それっぽくて”=フィクショナルじゃない妙なリアルさを持っているせいで、巻き込まれている子どもたち3人とか、マギーの学生(クミコ!がんばれ!)が不憫でしょうがなくなっていく。

 

本当に結婚という制度は、人間の変化というものの上に腰を置いている不安定な制度で、その割に結婚というものが与える他者への影響というものが大きすぎますよね。特に子どもというのは、まあ大人の我儘・身勝手さに影響されざるをえない立場で、それを大人がしっかり認識せねばなと。謎の使命感というのか責任感を抱きましたよね。

マギーとジョーゼットの計画がジョンにバレ、子ども達3人を番の後部席に乗せて、死んだ顔で前方席に座る大人たちのシーン。子ども用の音楽が流れているけれども、どっちが子どもなんだかと言いたげでとても良かったです。

そのシーンの前にマギーとジョーゼットの話し合いを、ジョーゼットの子どものポールが聞いてしまうんですよね。それで顛末をごまかしつつ語る2人に対して「考えがなさすぎる。計画性ゼロ」って言うところ。まさにそれで、与えてしまう影響力の大きさを考えずに行動する成人たちとそれに振り回される子どもたち、そして自分が当初予想していた人生ルートから外れることを求めたマギーが、結局運命か何かで元のルートに戻る皮肉等々、なかなか盛沢山だったと思います。まとめは、よく考えてから結婚しよう、でよろしくお願いします。

私は恋愛が続かないけれど経済的にも自立できているから子どもが欲しい、なので精子だけくださいのスタンスだったマギーが好きだし、それが許される世界は良いなって思っています。

『タリーと私の秘密の時間(2018)』

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 キャリアを追い求めたかったけれど、それを子育てに中断されてしまったからいつまでも諦めが付かず、愛しているのに罪のない子どもに当たってしまう、というのはよくあるプロットだけれど、マーロは違うんだよね。

マーロは子どもたちを愛していて、仕事よりもむしろ子どもを持つこと夢だったタイプなんじゃないかな。

それはマーロとタリーがブルックリンのバーで、胸が張って苦しむマーロをタリーがなだめるシーンで、扉を叩くやからに対してタリーが「いま奇跡を起こしてるの!」っていうシーンでよく分かる。

マーロにとっては彼女がタリーだった頃からずっと、子どもというのは神聖で愛されるべきで奇跡のたまものだった。今もそう思っているけれど、そう思っているに即しただけの優しい対応というものが、そうするだけに必要なほどの心の余裕が日常の多忙さでかき消されてしまってできていない。それができていない自分が許せなくて、かといって夫も仕事で多忙で兄夫婦はリッチなので環境が違うし、何より子育てをベビーシッターに頼むということを、自分に対して許してあげられなかった。

そんな中でマーロがはじき出した方法っていうのが、若い時の自分、タリーに助けてもらうということだった。若い時の、っていうのは、確かにあの頃は自由だった・体も細くて魅力的だった・思考もハッキリしていてクールだったっていう、『あの頃は良かった』っていう羨望もあったんだろうけど、今の自分の状況(子どもに恵まれること)に憧れていた過去の自分が、今の私を見たらなんていうだろうっていう恐れもあるはずで、そのタリーがマーロを助けてくれるというのは、私がタリーだったら子どもたちをいつもハッピーでいさせてあげられるのにっていう、今の自分への自己嫌悪が引き起こさせたものだったのではないか。

もちろん、マーロがタリーのままでは子どもたちと出会うことはできなかったのだけど、あの頃のかっこよかった私ならできたであろうことが、どうして今の私にはできないんだろう・こなせないんだろうっていう心苦しさがずっと、マーロにはあったんじゃなかろうか。

 

私は本編を観る前も、観始めてからもマーロとタリーは別人だろうとすっかり思っていて、交通事故後の病院でマーロの旧姓がタリーだったと分かるシーンまですっかりと騙されていた。

タリー=結婚前のマーロだと分かってから、その前のシーンを思い返せば切ないシーンがたくさんある。旧友と会うシーン(あの人は後半タリーが、私が男を連れ込むと怒る同居人と同一人物だよね)、夫のために買っていたコスチュームをタリーに着てもらってタリーに誘惑してもらうシーン。

あれ、急にこの映画の倫理観が狂い始めたと思ってどうした!?って慌てたシーンなんだけど、あれはマーロが自分の体形の変化を気にしつつ夫婦関係を再開させたくて、タリーの身になりきって誘ったっていうことだよね…

ウェイトレス姿のタリーにマーロが「妊娠していない体」って言っていたけど、あの言葉の重さは凄まじい。妊娠の代償とはいえ、子どもにすら「ママの体どうしちゃったの?」と言われる体、それを自分で愛して夫の前に晒そうとするって、恐らくものすごく勇気のいることだ。

 

マーロは最後、夫にこれまでの育児の不参加を謝罪され、協力を得て歩んでいくわけだけど、マーロを救ったのは確かにタリーで、つまりは過去の自分だったんだよね。

私はこの事実にとても勇気づけられると同時に不安も感じて、というのも自分で自分を救うことができるというのは物凄く頼もしいことではある。だって自分が自分を裏切ることって、そうそうしないから。

でもいざ自分に当てはめてみると、今後若い時の私になるであろう今の自分は特にゴキゲンなやつでもなく、将来のために頑張っているんでもなく、博識なわけでもキレイなわけでもない。そんな私が未来の私を救える私になるかしらと、ちょっと心もとなく、かつ不安には思いました。

それでも今の自分を、他の誰でもない過去の自分が救ってくれるというその結論の美しさだけは物凄く確かです。

『エブリデイ』(2018)

今月はカードの利用額がすごく多くて

驚いて久々にカードの明細を確認したら解約したと思っていたアマプラが解約できていなかったので、

決済日のギリギリまで映画を観ることにした。

Amazon.co.jp: エブリデイ (字幕版)を観る | Prime Video

上記のアマプラ紹介ページのあらすじが端的なのだけど、言っている意味が分からなくて思わず観始めた『エブリデイ』、天才のラブストーリーだった。

エブリデイ (字幕版)

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 ものすごく端的に言うと、体を持たない霊体Aは毎日同い年の人間に乗り移っている。

同じ人間に乗り移ることはなく、毎日乗り移った体の”本人”の人生に影響が出てしまわないように、その子の周囲に調子を合わせてなんとか1日をやり過ごしている。

ある日Aが乗り移ったのは男子高校生のジャスティンだった。

ジャスティンの友人にそれとなく接しながら、ジャスティンの彼女のリアノンに出会う。

リアノンは普段冷たいジャスティンが優しいことに喜び、楽しい1日を過ごす。

Aはリアノンに対し、はじめての恋心を抱き、誰に乗り移っても毎日のように自分の正体を隠してリアノンに会いに行く。

リアノンは不思議に思いながらもついにAからの匿名のメッセージに従って、Aの元へ会いに行く。

Aに正体を明かされ、不審に思うもののA自身が持つパーソナリティーと不思議な宿命によって醸成された優しさに惹かれていくが、次の日にはAは知らぬ人の体に入っており、時には連絡を取ることすら難しい。

そんな時、Aが1人の人間に対しても日をまたいで存在し続けることが分かり、2人は喜ぶが次第にAが憑依している”人間”とその周囲に齟齬が生まれ始める……というもの。

 

映像の美しさやユニークさはあまり感じられず、最初は観続けるか不安だったというのが正直なところ。

でも脚本とプロットの巧みさと、次々を登場する若い俳優たちがとてもうまいので見れてしまうし、なんならものすごく引き込まれます。

 

↓ここからはネタバレ込みで感想いきますね。↓

 

これは、完璧に次世代の『her/世界でひとつの彼女』だ。 

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『her』も実体を持たないAIとの恋愛を描いた作品で、大好きな作品だけれども、その次のレベルの恋愛を描いたのが今回の『エブリデイ』だろう。

『エブリデイ』は、実体を持つことはできるけれども1つの実体に留まり続けることは叶わず、精神性への愛に依存せざるを得ない恋を描いている。

この作品は2018年に制作されている。けれども、アプリでの恋や、アフターコロナでの恋愛・人間関係を暗示しているようで、思わずゾッとしてしまった。

 

この映画で描かれている恋愛は、現実での恋愛と同じくSNS、スマートフォンに強く依存している。

作中での図書館のシーンはとても示唆的で、リアノンに対して知らない人のフリをしたAに対して、

リアノンは「顔を知らないから人違いをしてしまった。ティンダーで出会ったってわけじゃないんだけんど」という旨の言い訳をする。

外見が見えない恋愛というのは、まさに出会い系アプリと同じ構造である。

IT化が過剰に進んでしまった時代での恋愛というものがテーマであったのだろうと予測するけれども、映画が作られた当時、そしてつい数ヶ月前まではアプリやSNSで顔も知らない人と出会い、恋に落ちるというのは恋愛における出会い方のひとつの手段であった。

 

しかしコロナ禍では、そしてアフターコロナとそれに続く第二波の噂や更なる強力なウィルスの脅威とそれに伴う移動制限の可能性などが語られる今日、恋愛における出会いはインターネットへの依存をさらに強めることになってしまうであろう。

私自身、この数か月間自宅待機を経験し、同居家族と一緒に居たけれども何度もティンダーをはじめようかしらと思った。

思うたび、もし良い人に出会えたとしても結局今の状況では実際に会うことができないのだから意味がないし...と諦めてきたのだ。

例えアプリで誰かと出会ったとしても、どれほどに濃密にコンタクトを交わしたとしても多くの場合は人は実際に会うことを求めてしまうようになる。

それは当然の心の動きであることは自明であるし、また恋愛の本質的な意味である生殖の面では当然のことである。

この映画でリアノンがAに会い、交流が深まるごとに身体での交流、つまりセックスのシーンが折りに触れて描かれることも皮肉でありながらも本質に触れているような気がした。

Aのことを秘密にしているリアノンは行動の不振さから同級生にビッチ呼ばわりをされたり家族に心配されたりしてしまうのだけど、

リアノンが思いを抱いているのはAだけで、その気持ちは外見には左右されていない。

つまりリアノンが深くAのことを愛しているからこそ外見に捕らわれずに、Aの憑依した相手に関わらず交わることができていたのだ。

その行動は少し恐ろしくありながらも、精神・人間性をこれほどに深く愛することができるのだという美しい証明でもある。

しかし次第にリアノンとAの仲が更に深まるにつれてリアノンは段々と油断した言葉をAに投げかけるようになる。

 

特にAがアレキサンダーに憑依し、憑依を解除せず数日に渡って彼の中に居続けるようになってからは、母の電話すら無視してリアノンとの時間を作るAに対して明日のテストを理由に早帰りを促したり、外見は気にしないと言いながらもフリンに憑依したときは来ないでほしいと言ったり、段々と肉体としてのAの存在に依存するようになってしまうのだ。

Aはここで怒ってもいいものなのだけどそれはせず、むしろ実体を持たない自分とリアノンが今後も関係を続けていくことの難しさをしっかりと説き、自分がリアノンを思うからこそ離れるべきだと言う。

例に挙げた難しさは、リアノンがAのことを秘密にし続ければ彼女が家族や周囲から孤立してしまうこと、憑依し続けなければならない宿命の元に生まれた子供とリアノンが負うであろう苦労など、とても生生しくて、どれほど人間と人間社会が実体・身体というものに依存してきたか・依存しているかを示している。

今は、それら人間と人間社会の実体・身体への依存が変化を強いられている。

しかも望まれざる形でだ。リモートワークなど、各所では対面化の廃止しよるアドバンテージも多く分かってきた。

それでも人間は根幹で家族や友人、親しい人との対面でのふれあいを強く求めてしまっている。

こと恋愛においては、精神性だけでなく肉体的での関係性の進度も比重が大きいから、どうしても会いたいという気持ちが膨らまざるを得ない。

だのに、それが難しい環境となり、さらには禁止されてしまう日も来るのではないか。

 

この映画では、精神だけの恋愛はついぞ実らなかった。

リアノンとAの恋愛はプラトニックではなかったけれど、精神と人間性を愛し、それを信じて関係を続け深めたという意味では十分にプラトニックな恋愛であったと言えるだろう。

肉体と視覚情報に捕らわれず愛し、愛することができたということを証明しているのだから。

 

私が最後、アレキサンダー自身からリアノンにかけられた「笑顔が素敵だってこれまで言われたことがある?」という言葉で泣きそうになったには、全てはAに同情したからである。

リアノンとAの恋が実らなかったのは、精神への愛の敗北だと思ったからだ。

愛というものには多くの種類があって、家族や友人への愛などもあるし、そういったものは精神に強く根差しているものだ。

しかし恋、つまり婚姻やパートナーというものに帰結していく恋の多くは肉体と視覚情報/視覚的魅力のウェイトが大きい。

リアノンとAのラストは恋における愛が、肉体性を失った場合の成就の難しさを示している。

それがシングルの私には寂しく、悲しかった。

シングルでも楽しく生きることが可能なのは十分知っているつもりだけれど、自分以外の存在がその時を一層素敵にしてくれることや、他者からの存在の肯定や与えられる安心感で日々がより素敵になることも経験から知っている。

そしてそれを築くまでの、それに至るまでの過程が簡単でないことも過去の経験で肌身に感じている。

 

これから私が、人間がそれを得るためにはこれまでの私たちが経験してきた過程よりも、きっともっと辛いのだ。

もちろん古来では会いたい人に会うことどころか連絡をすることも難しかったから、恵まれた時代であることは確かだ。

それでも私たちは会いたいときに会えるという便利さを存分に享受してきたのに、それを突然として奪われたのだ。

便利さを懐かしがりながら不便に耐え、満たされない気持ちと一緒に生きるのは、しんどかろう。

 

私たちの、私の未来に迫っている暗雲が厚すぎて、生きるのが嫌になるのだけど、こういう暗示的な良い映画を観るとそうとも言っていられない。

映画の存在の意味が、私たちを救っているなと思う。人類は変化に慣れてこれまで進化してきたわけだけれど、それに耐えられなかった人間も確かに存在したわけで、その人たちの存在を思いながら親近感を抱いている。

強いられる変化の、なんと残酷なことか。

 

P.s. この映画はBGMも秀逸だと思う。

ずっとこのプレイリストを聴きながら記事を書いていた。

EVERY DAY (Movie Soundtrack) on Spotify

 

2020.5.3

パックスジャポニカの話を聞いていると、本当に暗くなる。
結局は日本がまた興隆するという話なのだろうど、そうなるまでの過程がよほどしんどいらしくて、まあそれが嫌だなというわけ。
多分今の騒動の比じゃない、それこそ精神的、物理的にいろんなしんどさや生きづらさがやってくるんだろう。
私は今回の騒動ではじめたばかりだった自営を休業しているわけなのだけど、全然再開できる気がしないもんな。
再開できないということは、新たな食いぶちを探さなきゃいけないわけで、集団で働くことに向いていないからっていう理由で自営をはじめざるをえなかったタイプの人間こと私にはキツい。それでもしなきゃいけないんだろうけど、しなきゃいけないのが辛い。

これからは恐らく、あらゆる意思決定においてかなりの確率で同じ方向を目指せるパートナーを探すか、自分一人で生きていくか、のどちらかの覚悟をしなきゃいけないんだろう。
私は圧倒的に後者となる確率が高いだろうなと思いながら生活しているわけだけど、前者となるかもしれない可能性も考えて、断捨離したり昨日からはトレーニングをはじめたりしている。
そういった努力やスキルが誰かを魅了することはなくても、まあ巡り巡って自分のためになるので、少なくとも無駄になることは無いだろうと思って(無理やりそう信じて)やってはいる。でも昨日みたいに虚無ることも多々ある。食いぶちの確保には直接的な関わりが薄いから。

それにしても一人で生きていく覚悟というか、選択肢を強く考え出したのがいつ頃からか分からなくて、でもずっと家族以外の他者から愛される幸せは自分には降り掛かってこないんじゃないかってもっとずーっと前から思っていた気がするんだよな。
私は中学から夢女で高3から執筆もはじめたもんで、その感情でずっとそういったことの感情の昂りを補ってきて、かつ満足してきてしまった。今でもそうで、現実社会で似たもの(もしくは上位感情)を手に入れるためにかかる手数を面倒に思って避けてきた。
現実での恋愛で得られるものの代替物みたいなものはそうやって手に入れてきて、かつほとんど全てにおいて面倒臭がりだから現実社会で恋愛をするために外見でも内面でもスキルでも相手にアピールするために磨くのがずっと面倒臭かった。今でも面倒くさい。
夢や映画が好きなぐらいなので、恋愛の美しさやパートナー関係の素晴らしさの否定はしないけれど、私には関係ないことだなと、ずっと憧れながら誤魔化しながら俯瞰して見ている気はする。
今回の騒動の後では恋愛のハードルがもっと上がって、かつ結婚となるともっともっと色んな要因の思考が求められて難しくなるだろうなと思っているから、もう諦められるなら諦めた方が良いかもなとは思っている。でもそんなことトレーニングしながら思ってるから、まだ覚悟ついてない感じはするな。

それと断捨離においては、自分が死んでも家族が楽できるようにしているっていうのもかなり大きい理由どころか、実は発端はこちらの方だ。
今回の騒動で死ぬかもな~がますます身近になったので、私の死後に両親が私の遺品やそれ以外の生活用品の処分や整理、ひいては暮らしやすく家で過ごせるようにと思って、この1ヶ月くらい細々と掃除をずっと続けている。
昨日は写真の整理をしたと書いたけど、写真やアルバムの置き場をつくったので、額縁に入れられているけれど写真以外のものの多さで邪魔になってる写真がかなり多くて、そういうのも全部棚に仕舞った。飾る場所を探せるほどの余裕もスペースもまだ無いので全部縦に積んでやった。

両親の小さい時の写真だったり新婚旅行だったり、私の小さい時の写真だったりするけど全部仕舞いこんだ。
だんだん余裕が出来てきたら飾る気持ちにもなるかもしれないしと思ってそうしたけど、この思い切りの良さというか情緒の見捨て方は、自分がしている事ながらやっぱり少し寂しいし、あらゆることを否定しているような気持ちすらしてくる。
確かにアルバムや、額装すらしてない裸でほっぽられていた写真なんかは、棚に並べられたことで前よりも処遇になったわけだけど、飾られていた写真たちは目に触れられにくい場所にいかされたわけだから、降格だわな。

今日は天気が悪く、かつ家族があまり家事をしなかったので私も合わせてあまり掃除はしなかった。
したのはカバン置き場の整理、お風呂に入りながら残り湯で埃まみれの籠洗い、猫のベッドの模様替えとちょっとした配置換えと整理など。あんまり大々的なことはしてない。
でも明日は今日は洗った籠なんかを使ってキッチンの模様替えをするつもり。こういうことは、誰にも相談せず私がメインで使わない部屋においても勝手に進めているので、本当に役立つかは甚だ疑問であるけども、やっていると運動になるし最中は精神的に手足が動かせる座禅をしているような気持ちになれるから、無意味ではない、はず。多分。自分で自分を救っているだけかもしれないけど、勘弁してほしい。

今日のいいことと言えば、ぜんざいが美味しかったこと。家でぜんざいやると、自分好みの甘さにできるから最高。

2020.5.2

投稿していなかった間、ほとんどずっと家の掃除と整理をしていた。他はツイッターやったりファンフィク見たりなんだりかんだり、でもほとんど掃除してた気がする。
階段下の収納や脱衣所の棚の中、ずいぶん触られてなかった場所を開けて捨てて整えていた。疲れた。
さすがに終盤戦になってきて満足感もあるけど、今は満たされない気持ちしかなくて困っている。

掃除含め、小さな娯楽はあるけれどそれをしても満足できないなら、どうしたらいいんだろう。
元々友達は少ないタチだから、会いたくて仕方ないとかではないはずなのに、あまり外出していないことの弊害としてこの鬱屈があるんだろうか。
どうやってこれを解決したらいいか分からない。掃除が終わったらやろうと、大学でやっていた制作をまた始めるための部屋の準備もちょっとやっているけど、それにかかるには他のもっとよく使う部屋の掃除をしてしまいたい。でも、やったところであんまり気が晴れないんだよな。
将来や政治のことを考えると暗くなるしかないから、なるべくあんまりにも深いことは考えないように、自分を麻痺させながら生活してるんだけどたまに正気に返ってしまうのがしんどい。

アラサーなんだけど、TVなんかで定年後の生活を送っている人を見ると早く定年したいって、もう何年も前から思っている。
そうなるまでまだ、ほとんど40年以上残ってるんだけど定年するまでの頑張りをやりたくないんだよな。
今の時代にそういう生き方というか、時間の過ごし方をしなければいけないのがすごく負担というかストレスに感じる。

今日写真の整理も終わったんだけど、祖父母以前の全然知らない会ったこともない親類の写真も整理したし、小さい時の自分の写真も見て、なんかもう虚無になるしかなかったよな。
生まれた時から今日の今日までずっと甘ちゃんだし、これからも甘ちゃんで生きていくと思うんだけどそれが許されない世界と社会だからマジで向いてないなと思う。今じゃなくてもかもだけども。

2020.4.18

午前

ツイッターのモーメントを2個作ったりサイトで新しいページを作ったり小説を3つ書いたり、まあまあ多忙。

しかしその前に現在休職中の自営の書類やデザインをあれこれを整理していてほんとうに心が死んで不安で泣く寸前だったので、趣味のことをしてなんとか心を保てた。ありがとうの気持ち。

 

BGMでずっと聞いてたデュア・リパの新譜、『Future Nostalgia』が全部よかったので、これも支えになった。

ビジュアルも曲も、90'sに乗るのが本当にうまい。そしてめちゃくちゃなかっこが似合うからズルくて、そんなとこも最高。

Future Nostalgia

Future Nostalgia

  • アーティスト:Lipa, Dua
  • 発売日: 2020/04/01
  • メディア: CD
 

 それから6時前に人生初の朝散歩をして芝桜を見に行く。

 
 午後 
裏の家がうるさくてなかなか寝られず、結局2時間寝て起きる。
料理、消毒系のリキッドを作り足す、風呂入りながらカゴを2個洗う、食事、2Fのプチ模様替えをして今また布団にいる。
ちょこちょこと必要でないことをして多忙なフリをしているけど、それでも心が騙されてくれるので助かる。紅茶を久々に飲んだからか、危うげな高揚感すらある。相変わらず金カムが面白くて、読み直すのが楽しみ過ぎてなかなか2周目に入れない。