いもぐい

映画や読んだ本、マンガの感想、生活のログ。

▶ゴールデンカムイ(2014) 読書体験記ver.

先日『ゴールデンカムイ』を235話まで読み終えた。あらすじと、読んでからの所感を書きたかったのだけど、長くなりそうなので数本に分けます。

まず今回は読書体験記的な、読了後に抱いた気持ちや個人的な変化などをまとめます。金カムのあらすじにはほとんど触れていませんが、ネタバレを気にする方にはおすすめしません。 

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックス)

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックス)

 

4月9日4月10日の記事で触れたが、金カムを読むまでに時間がかかった理由は2つ。この作品のテーマに戦争と狩猟が含まれているからである。

両方、とにかく触れたくなかった。なるべく避けて生きてきた。まず戦争に対しては、歴史としても事象としても、それがある作品のテーマとしてだとしても、知ることや読むことをできる限り避けてきた。

狩猟に関しては、動物愛護的観点から疑問を持っていた。確かに現代でも害獣対策など、しなければならない理由があることは分かっているし、ことにこの作品では時代設定やアイヌ文化として現代よりもことさら密接に狩猟が行われてきたという背景として扱っていることは予想していたけれども、それでも長く躊躇してきた。

それが今読む気になった理由は前記事に既に書いたので端折るが、外出自粛中で暇だったから、というのもここで付け加えておこうと思う。

 

235話を4日かけて読んだら、実はネックだったその2つのテーマへの自分のスタンスが、大きく変わった。戦争に関しては知りたいと思うようになったし、狩猟に関してもある程度肯定的にものが見られるようになった。

正直マンガ1つでそこまで自分の考え方が変わったことにまだ驚いているので、その変化の過程を書いておきたい。今日はまず戦争について。狩猟に関しては後日追記します。

 

戦争については知りたいと思うようになったと書いたが、知る責任を感じはじめた、というのが正確であろう。

4月10日の記事に書いた通り、現在知っている限りでは父方の祖父、母方の祖父と兄弟2人が出兵している。遠い親戚を含めば、もっといるだろう。

私が戦争という言葉から連想するのは、いつも父方の祖父だった。小学生になるまで父方の祖父母宅に両親と同居していたので、祖父が戦争に行ったというのは小さいころから知っていた。しかし祖父から直接話を聞いたわけでも、ましてや祖父にその経験を聞く人間はいなかったと思う。祖父は真面目で寡黙だった。

父方の親類はつかず離れずの関係をずっと維持している。父の兄弟関係もそうであるし、父たちの親子関係にしてもそう見えた。不仲なのではなく、ただ過剰にお互いの家族関係や人生に干渉しないように、いつも一線を引くことを心掛けているような風だ。

一方の母方の親戚関係は彼らとは真逆なので、対比によって冷静さが際立っていたとは言えるだろうが、小学生かそこらの頃にはその違いは感じられた。

祖父はあまり自分から話すほうではなかった。几帳面で、自分にも他者にも厳格だった。祖父が亡くなってもう15年近く経つので、生前そういたことをちゃんと聞いてあげればよかったと悔やむには長く時が経ちすぎているけれど、それでも金カムを読んでいるとそう思わざるを得なかった。

 『ゴールデンカムイ』の主人公、杉本佐一は作者の野田サトル先生の御曽祖父様に由来するそうだ。先生のブログが詳しい

先にも書いた通り、私は昔からほんのこの前まで、戦争や戦争が題材となるものを見ないようにして生きてきた。恐ろしく、醜悪で惨たらしい。戦争は忌むべきものである。しかし、そう理解する・そう思うせいで戦争が起こった背景や、もたらされた結果を知るという行為さえ、私はずっと毛嫌いしてきたように思う。

過去に戦争を起こした国に生まれた者として(起こしていない国はないだろうが)、知ることは義務であり、それがせめてもの償いと慰めであるという、歴史の授業やTVで何度も何度も聞かされたことが、金カムを読む中でやっと実感として感じられるようになったのである。

 

『ゴールデンカムイ』の主人公である杉元は、優しく根明な好青年だ。自分が守ると決めた人とものを守る責任感がを持ち、それができるだけの技量と度量がある。しかし彼がそういった術を学んだのは戦地である。好む好まざるを超え、若い杉元にはそういった生き方をする以外の選択肢は無かった。戦後も生きていくにはその生き方をなんとか肯定せねば生きていけないから、彼は己の倫理観を曲げて生き足掻いている。

その残酷さが、本編にはずっとついて回る。回を進めるごとに、杉元は自分や彼が好む人、アシリパなどに危害を加える事物に対する武力への行使に、躊躇しなくなっていく。その様はアシリパの杉元に対する戸惑いだったり、自分の裏切りがバレたら殺されるのではないかと恐れる白石の姿などと共に描かれていく。読者も、杉元が正義感ゆえの残忍を見せてゆくので、アシリパたちと感情がリンクしはじめるのだけど、同じくして彼女らと同じように、杉元に対してそう感じてしまうことが、申し訳なく思うようになる。

杉元は人殺しの悪党だなどとは、決して言えないだろう。ましてやこの作品に登場するほとんどすべてのキャラクターには、あらゆる正当性があり、信じる正義のもとに行動しているので、犯罪者はいても悪人はなかなか居ない。

杉元の行為も彼らと同じく彼自身の信念に基づいたもので、どれもなにかを守るために行われることだ。正当防衛という範疇は確かに超えているものの、彼を業の深い犯罪者として断罪するのは、後ろめたさが残る。

なぜなら杉元は、そうするしか術を知らないのだ。自然環境も時代背景も、言って聞いてくれるような相手ではない。戦わねば殺されるし、躊躇している間もない。”戦って守る”以外の選択肢を彼から奪ったものと、それに対応できるだけの身体的・精神的アドバンテージを与えたものは、皮肉にも同じくして戦争である。

この作品の戦争描写は、私にとっては苛烈で厳しいものだった。脳みそが撥ね、手足が吹き飛ぶ。その多くは、少し前まで戦ったこともないただの市民だった人たちのものだ。杉元は柔道の経験があるとされているけれども、戦場で戦うのとは、わけが違うだろう。知らない場所に突如として放り込まれた一般市民と変わらない。

杉元は家族を結核で亡くしている。村を去ることを幼馴染の梅子に止められた時には、顔を歪めて泣くような人間だった。それが戦時中の彼ともなれば鬼神の如く怒り殺し、悲しむことは諦めたような顔つきをしている。涙もめったに見せないし、泣いてもあれほど弱弱しくは泣かない。戦争で杉元は、違う人間にさせられた。人を殺してしまったら、もう前には戻れないというのは、作中で杉元自身が語ることである。

戦争というものが奪うのはなにも人命だけではなく、人の人格を奪って巣食うものだということが、杉元や他の(元)軍人たちを通して、あらゆる視点から描かれる。これも同じく作中で言及されることだが、心が戦場から帰ってこられないようにしてしまう、という表現も出てくる。

 

私の祖父は、なにか奪われたのだろうか。奪われたとしたら、なにを奪われたのか。奪われた傷は、誰かに・なにかによって癒されたのか。読み終わってからずっとそんなことを思っている。それを当人から聞く方法はもはや無いから、調べて憶測するしかない。私は無責任な人間なので、知った事実が酷なものでも安気な憶測をするだろう。今まで知らないという選択をしてきた自分に対して、楽な予測をすることは間違いない。それでも祖父のこと、祖父がしてきたことを知らないよりは、マシでないかと信じている。

そう思いつつ日々に忙殺されて、父に対してはさえそういった話を聞いてすらいない。することはもう心に決めているが、いわゆるこういう深い話を、そもそも父と親子として話したことがないのだ。それがこのきっかけによって崩されるとしたら、金カムがまたあらゆる私を変えるということになるので、楽しみではある。

母に対しては既に聞いた。先日ちょうど祖父母含む写真の整理をした時に聞き出したのだ。少し前から始めていた掃除の一環として写真整理をすることは前から決めていたのだけど、私が知りたかったことが聞きやすくなるタイミングで能動的にまさに事が起こったので、”そういう時”だったんだなと思っている。

祖父は戦地から日本に日記を送っている。マメな性格だったから、かなり詳細な日記であると思っている。祖父の遺品整理をした母に、日記のことを聞いたところ、数ページ読んだものの内容があまりに重く、読むことはあきらめたそうだ。処遇はすべて父に任せたそうで、もしかすると捨てられてしまっているかもしれない。早々にも確認したい気持ちもあるのだが、父と私の関係においてはまだ”そういう時”が来ていないような気がしていて、確認に至っていない。それも言い訳で。本当は照れ臭いだけだ。

また母方の祖父については、こちらの祖父は満州に出兵したが年齢的に終戦近くになって出兵したらしい。それもあってかすぐに帰国できたが、祖父の兄2人は戦死している。

 

冠婚葬祭の際に、一家の年表をつくっておかなきゃいけないね、というのを昔、母方の叔母が言っていた。母方の祖母の異父妹が家系に詳しいのだ。当時も作っておいて損はなかろうなと思いつつ聞いていたが、未だ誰も実行していない。

血というものは不思議である。私は戦争に対してそうであったように、親戚に関しても無関心だ。両親のことは深く愛しているけれども、それ以外は疎ましく思っていたりする親戚もいる。先祖に対してもそうで、お盆などはもはやただの形式的儀式で、墓参りなども気乗りせず、家の片づけをするたびに出てくる遺品なども、うざったく思い捨てることが多かった。仏壇に飾られている位牌も写真も、誰のものか知らないものが大半だ。

そう思っていたのも全て、ひとりっ子である自分がそういったものすべてを継ぐという責任を、負担に思っていたからだ。母方の名字は叔父が未婚なので継いでいるが、父方の名字は私が継がなければ途絶える。せめて父方の名字は残したいと、昔から思っていた。しかし家族の歴史に関しては、そう思うことはなかった。知っておいたほうがいいと思いながら誤魔化していたのは、知るのが面倒で責任を回避したかったから。次代に次ぐ役割を、果たしたくなかった。今でもその重圧は感じているけれども、それでも私の体に薄くはなく流れている祖父の血が、知らなければという心を次第に生み出していると思っている。

戦地に赴いた1人の人間が私の2代前の血縁におり、彼は戦地で足を撃たれ、敵が死んでいるかどうか彼らの肢体を振り回しては捨て、戦後は戦地から数点の掛け軸を持って生きて帰ってきた。玄関に小さなキャンプ用の椅子を置いてタバコを吸っていた、私の祖父の過去だ。そんな大難を記憶した血がヘタレの自分に流れていることが不思議でならない。血にこだわると、不要な選民思想や分断を生む可能性があることは分かっている。祖父の血を継いでいることに、過剰な誇りや嫌悪感も抱いてはいないつもりだ。

責任回避の思いからこれまで避けてきたあらゆることに面する気持ちを、『ゴールデンカムイ』がもたらしてくれた。まだまだ本編も続きそうで頼もしいく、杉元が行き着く先が楽しみでおそろしくもある。

それと同じくこれから知る祖父のことも、今からとても大切に思っている。